プログラミング言語の歴史に関する文献

単行本

  1. Rosen, Saul, (ed.) (1967), Programming Systems and Languages, McGraw-Hill
  2. Sammet, Jean E.(1969), Programming Languages: History and Fundamentals, Prentice-Hall
  3. Richard L. Wexelblat (ed.) (1981) History of Programming Languages, Academic Press
  4. Thomas J. Bergin and Richard G. Gibson (eds.) (1996) History of Programming Languages, Addison Wesley

論文 — 発表年代順

  1. Sammet, Jean E.(1972), “Programming Languages: History and Future”, Communications of the ACM, 15(7), July 1972
  2. Wegner,P.(1976) “Programming Languages — The First 25 Years,” IEEE, Vol. C-25, No.12, pp.1207-1225
  3. Backus. J. (1978) “The History of FORTRAN I, II,and III,” SIGPLAN Notices, Vol. 13, No. 8,Proc. History of Programming Languages Conference, pp. 165-180
    同論文はAnnals of the HIstory of Computing, Vol. 1, No 1 (July 1979)に再録されている.
  4. Takeshita, T. (1972) “Survey of Programming Languages in Japan,” Proc. 1st USA-JAPAN Computer Conference
  5. 中田育男(1980)「プログラミング言語の歴史と展望」『情報処理』2l(5),pp.574~582(1980-5)
  6. 『情報処理』22(6)の大特集「プログラミング言語の最近の動向」
      1. 中田育男(1981)「プログラミング言語の最近の動向について」」『情報処理』22(6),pp.445-447
      2. 徳田雄洋(1981)「プログラミング言語に関する一般的参考文献」『情報処理』22(6),pp.448-451
      3. 菅忠義(1981)「FORTRAN」『情報処理』22(6),pp.452-456
      4. 今城哲二「COBOL」『情報処理』22(6),pp.457-460
      5. 川合慧(1981)「ALGOL60/ALGOL68」『情報処理』22(6),pp.461-464
      6.「PL/I」『情報処理』22(6),pp.465-468
      7.「LISP」『情報処理』22(6),pp.469-472
      8.「SNOBOL」『情報処理』22(6),pp.473-476
      9.「SIMULA」『情報処理』22(6),pp.477-482
      10.「BASIC」『情報処理』22(6),pp.483-487
      11.「APL」『情報処理』22(6),pp.488-492
      12.「PASCAL」『情報処理』22(6),pp.493-496
      13.「ADA」『情報処理』22(6),pp.497-500
      14.「マイクロコンピュータ用言語」『情報処理』22(6),pp.501-504
      15.「マクロ言語」『情報処理』22(6),pp.505-509
      16.「システム記述言語」『情報処理』22(6),pp.510-514
      17.「仕様記述言語」『情報処理』22(6),pp.515-519
      18.「テストプログラム記述言語」『情報処理』22(6),pp.520-524
      19.「抽象データ型言語」『情報処理』22(6),pp.525-530
      20.「並列処理言語」『情報処理』22(6),pp.531-534
      21.「人工知能用言語」『情報処理』22(6),pp.535-539
      22.「シミュレーション言語」『情報処理』22(6),pp.540-544
      23.「事務処理用簡易言語」『情報処理』22(6),pp.545-549
      24.「エンドユーザ用言語」『情報処理』22(6),pp.550-554
      25.「データベース用言語」『情報処理』22(6),pp.555-558
      26.「文書整形言語」『情報処理』22(6),pp.559-564
      27.「数式処理言語」『情報処理』22(6),pp.565-569
      28.「ハードウェア記述言語」『情報処理』22(6),pp.570-573
      29.「数値制御用言語」『情報処理』22(6),pp.574-578
      30.「プロセス制御用言語」『情報処理』22(6),pp.579-582
      31.「関数型言語」『情報処理』22(6),pp.583-587
      32.「述語論理型言語」『情報処理』22(6),pp.588-591
      33.「言語設計プロジェクト」『情報処理』22(6),pp.592-595
  7. 高橋秀俊(1983)『情報科学の歩み』岩波書店の第5章「ソフトウェアという機械」中田育男(1987)
  8. 「FORTRANコンパイラの開発」『コンピュータソフトウェア』 4(1), pp.53-61, 1987-01-14
  9. 渡邊担、藤波順久、中田育男(1999)「コンパイラ研究の動向について」『コンピュータソフトウェア』16(2), pp.175-178, 1999-03-15
 

WEB記事

  1. gigazine.net(2014)「誕生から50年を迎えたプログラム言語BASICの歴史、その精神とは」2014年05月01日

パラメトロン素子に対する批判的見解

臼井健治(1986)『日本のコンピュータ開発群像』にっかん書房における記述
日本電気の出川雄二郎氏の証言
「あのころは、パラメトロンの呼び声が高くて、どっちかといえば、パラメトロンをやる人
のほうが偉いようなことをいわれていた。そこをトランジスターでやったのが、和田さんの偉いところだ。」
日本電気の遠藤良明氏の証言
パラメトロンは、スピードに限界があり、電力も食いすぎる。いずれトランジスターに移ることは予想されていたし、MARK-Wが事務用を指向していることも、今後のコンピューターにふさわしいと思った。これを基礎にすれば事務用の実用化が早まるだろう、これを導入すべきだと考えて、帰って上司に報告した」p.306
日本電気の小林宏治氏の証言
パラメトロンは、電源がとんでもなく要る。商用には不向きだ。電気試験所はMARK-IVをトランジスターでやっているのだから、これとタイアップして商用のコンピューターをつくろう。IBMがノウハウをくれないなら、これと競争して負かしてやろうと、大それたことばかり考えていた。そのころ、IBM650の大量もちこみの噂があったが、同じくらいのものをトランジスターでやったら勝つだろう、というわけだった」p.307

日本におけるTSS

日本における最初期のTSS研究
「(1963年に開設された大阪大学の計算センターは、1965年にIBM・WTCからIBM7090の無償提供の申し出を受け、同機を入れるかどうで大議論になったが、最終的にはNEAC2200-500という当時の大型機を入れることに決め、1970年までは同機の無償提供を受けたが)安井氏によると、「大型センターができてからは、NEAC2200-500を中心とするTSS(タイム・シェアリング・システム)をやるので、その阪大スタッフの一員ということで、TSSを手がけることになった」TSS研究も、これが日本初だった。」臼井健治(1986)『日本のコンピュータ開発群像』にっかん書房,pp.56-57

コンピュータの定義をめぐる論争

「最初のコンピュータとは何か?」という問いにどのように答えるのかは、コンピュータをどのようなマシンと定義するのかという問題でもある。「コンピュータと呼ばれているもの」をどのように定義するのかに関しては様々な議論がある。
ここではそうした定義をいくつか紹介しておくことにしよう。

1.プログラム内蔵方式の電子式計算機

プログラム内蔵(stored program)方式とは何であるかという概念的規定それ自体も歴史的に捉える必要があるが、ここではとりあえず星野力(1995)『誰がどうやってコンピュータを創ったのか? 』p.35における「プログラムは、それが実行されるときには、計算機械の内部にあるメモリ中に記憶され、計算と同じ速度で取り出されなくてはならない」という規定のように考えておくことにしたい。

a.プログラム内蔵方式という考え方の発案者をめぐる議論
プログラム内蔵方式という考え方の発案者はノイマンとされることが多いが、これに関しては異論がある。

星野力(1995)『誰がどうやってコンピュータを創ったのか』共立出版の第6章3節「プログラム内蔵方式は誰の発明か?」(p.104-)でこの問題が詳しく論じられている。
 そこでは、エッカートとモークリーによって1945年9月に書かれたEDVACのプログレスレポート、バークスによる証言(Burks et al.,1988) 、1970年代のスペーリ・ランド対ハネウェルのENIAC訴訟のときに弁護士によって発掘された文書「文書磁気ディスクに関する覚書」などを根拠とする、エッカートが1944年1月にはプログラム内蔵方式に気づいていたという説、および、それに対するゴールドスタインの批判、および、エッカートとモークリによるゴールドスタインの議論に対する反論などが紹介されている。
 なおこの論争に関して星野氏自身は、「エッカートらは磁気ディスクや遅延線というハードウェアを考案したことは、直ちにプログラム可変内蔵というアーキテクチャも考案したことである、といったような認識をどこかにもっているように思える。これに対して後世では(当時でもフォン・ノイマンは)、プログラム可変内蔵方式の本質は論理的なレベルにおけるアーキテクチャと、そのチューリングマシンとしての万能性にある、と理解していることである。これが正しいとすれば、フォン・ノイマンの業績は、プログラム可変内蔵方式を論理的に明確にし発展させたということであろう。」(p.109)というように主張している。
  また横山保(1995)『コンピュータの歴史』中央経済社は「ENIACの大きな欠点の一つは、プログラムの作成がプラグ、ソケットによるワイヤリング(wiring)方式であることであった。一つのプログラムをつくるのに、数人の人によって数日を要し、数百のワイヤーの結合を行わなければならなかった。この欠点を解決し、完全なフレキシシビリティをもたせるようにしたのがプログラム内蔵式(stored program)の考えである。この考えは主に、ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann,1903-1957)によるものである。」(p.84)とする一方で、Burks, A.W.,Godstein, H.H., von Neumann, J. (1946) “Preliminary Discussion of the Logical Design of an Electronic Computing Instrument”を典拠として「1944年、ゴールドスタインはノイマンにENIAC計画を説明している。そして両者はプログラム内蔵式の考えを発表している」(p.85)としている。

[関連参考論文]
Burks, A.W.,Godstein, H.H., von Neumann, J. (1946) “Preliminary Discussion of the Logical Design of an Electronic Computing Instrument”
https://www.cs.princeton.edu/courses/archive/fall09/cos375/Burks.pdf
Metropolis and J. Worlton,(1972) “Trilogy of Errors in the History of Computing,” First USA-Japan Computer Conference Proceedings, pp.683-691
Metropolis,et al.(Ed.1980)History of Computing in the Twentieth Century,Academic Press

本書中に、Burks, W.”From ENIAC to the Stored-Program Computer : Two Revolutions in Computers”(pp.311-344)や、Eckert,J.P.”The ENIAC”(pp.525-539)、Mauchly, J.W. “ENIAC” (pp.541-550)などが収録されている。

Burks,Alice R., Burks,Arthur W.(1988) The Fisrt Electronic Computer, The Atanasoff Story, The University of Michigan Press[邦訳:大座畑、重光監訳『誰がコンピュータを発明したか』工業調査会,1998]

b.プログラム内蔵方式を最初に実装したコンピュータをめぐる議論

プログラム内蔵方式の意義は多くの人々が理解していたが、コストなどの問題から実装は遅れた。
イギリスのSSME(Small-Scale Experimental Machine)とする説

Napper, R.B.E.(2000) “The Manchester Mark 1 Computers1” in Rojas,R., Hashage, U. eds. (2000) The First Computers History and Architectures, pp.365-377
同論文のアブストラクトでNapperは、”This paper provides a brief history of the four related computers that were designed and built in Manchester from 1948 to 1951, and a summary specification of their architecture. Each machine has a strong claim to be a “first” in the history of stored-program computers, specifically allelectronic computers with an electronic store.”としながらも、SSEMが内蔵プログラム方式で駆動した最初のマシンであるとしている。(“The SSEM (June 1948) was the first such machine to work, thus realizing and proving the von Neumann ideal.”,p.365)
Burton, Christopher P. “Rebuilding the First Manchester Computer” in Rojas,R., Hashage, U. eds. (2000) The First Computers History and Architectures, pp.379-386
同論文のアブストラクトでBurtonは次のように1948年6月21日に内蔵プログラムを初めて動かした書いている。
The University of Manchester Small-Scale Experimental Machine, the “Baby,” first ran a stored program on June 21, 1948, thus claiming to be the first operational general-purpose computer. ”

大駒誠一(2005)『コンピュータ開発史』共立出版,p.123およびp.126
「SSEMは、・・・1948年6月21日に最初のプログラムが動いた。世界で最初のプログラム記憶方式コンピュータである。」(p.123)
「このSSEMの性能はまったくたいしたものではなかったが、ちゃんとメモリ上に置いたプログラムが作動し、いわゆるフォン・ノイマン型の紛れもなくプログラム記憶方式のコンピュータである。EDSACを最初のプログラム記憶方式のコンピュータとする文献は多いが、これは間違いである。EDSACは最初に実用になったコンピュータではあるが、Babyのほうが約1年早くプログラム記憶方式のコンピュータとして動いた。」(p.126)
なお大駒誠一氏は、Okoma, Seiichi(2000) “The First Japanese Computers and Their Software Simulators” in Rojas,R., Hashage, U. eds. (2000) The First Computers History and Architectures, p.421で富士フィルムのFUJICが1956年3月に日本で製造された最初のプログラム内蔵方式コンピュータであるとしている。
“The FUJIC, a monumental computer, was completed in March 1956. It was the first stored-program computer
made in Japan.”
日本語版ウィキペディア「計算機の歴史」
日本語版ウィキペディアでは、「(ENIACは)メモリに格納できる問題なら、どんな問題も計算できた。しかし、プログラムは配線やスイッチの状態によって定義されており、プログラム内蔵式とは言えない。」「プログラム内蔵式として設計された最初のコンピュータはEDVACだが、実際に最初に稼働したのはEDVACではない。エッカートとモークリーがプロジェクトを離れ、製作が停滞したためである。最初のノイマン型(プログラム内蔵式)コンピュータは1948年のマンチェスター大学の通称 “Baby”、正式名 Small-Scale Experimental Machine である。」としている。すなわち、Small-Scale Experimental Machineは「ウィリアムス管メモリを使ったプログラム内蔵式」で1948年6月に稼働していたのに対して、修正版ENIACが「配線変更とスイッチ設定によるプログラム制御とあわせ、Function Tables と呼ばれる機構をプログラム格納用ROMとして使ったプログラム内蔵式も可能」となったのは1948年9月、EDSACが「水銀遅延線メモリによるプログラム内蔵式」で稼働したのは1949年5月である、としている。http://ja.wikipedia.org/wiki/計算機の歴史(2013年6月23日アクセス)

SSMEに関する上記のような評価にも関わらず、SSMEすなわちSmall-Scale Experimental Machineはその名称を直訳すると「小規模実験機」となることからもわかるように、コンピュータ製品とは位置づけがたいものである。実際、大駒氏自身も上記のように述べる一方で、同じ箇所で、SSEMの記憶容量はわずか32語(1語は32ビット)に過ぎず、実行可能な命令もったの7種類であったことから、「コンピュータというよりはむしろ、ウィリアムズ・キルバーン管(一種のブラウン管)がメモリとして使えるかどうかの、動作テスト機械であった」(p.123)としている。
イギリスのEDSACとする説

星野力(1995)『誰がどうやってコンピュータを創ったのか』共立出版,p.81
「本書においては、(そして多くのコンピュータ科学・技術に携わる人たちの間では)コンピュータという用語は厳密には<プログラム可変内蔵方式>を意味している。第七章で述べるように、この意味で最初に実用に達したコンピュータは一九四九年のEDSACである。」(p.81)、<プログラム可変内蔵方式>という構想はすでにEDVACマシンの開発時から存在したが、「EDVACは開発関係者間の意見の対立により大幅に完成が遅れ」たため「世界最初のコンピュータ(プログラム可変内蔵方式と定義する)として出現したのは、このEDVACの影響下に、イギリスはケンブリッジ大学でモーリス・ウィルクス(Maulice Wilkes)によって製作され、一九四九年五月にプログラムの実行を開始したEDsAc(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)(32ビット五一二語の遅延線メモリ、三、〇〇〇本の真空管)だったのである。」(pp.118-119)としている。
 なお星野力氏は、「本書ではコンピュータを、実行時にプログラムを書き換え可能なもの(プログラム可変内蔵)と定義するので、ENIACはコンピュータとはいえない。」としながらも、星野氏はまた「〈可変〉を取り除いて単に〈プログラム内蔵〉とすれば、一九四八年の改造されたENIACが最初であろう。」(p.81)「後の一九四八年、一入力対一〇〇出力のマトリックススイッチを命令デコーダ(解読器)とするような改造が行われ、メトロポリスは(フォン・ノイマン夫人のクララの助けによって)この機能により、世界最初のモンテカルロ法を計算している。/このことからENIAACは十分にプログラム固定内蔵方式といえる。」(p.90)、「ENIACの革新的意味は何だろうか?それは電子式で(〈で〉は、かつ、の意味)、デジタル方式で、プログラム内蔵型で、実用規模の科学計算汎用である計算機械として、世界最初のものである。」(pp.96-97)としている。
横山保(1995)『コンピュータの歴史』中央経済社,p.85
「最初のプログラム内蔵式のコンピュータであるEDSAC・・・このコンピュータでは、ソフトウェアの出発点であるサブルーチン・ライブラリの仕事が行われている。このサブルーチン・ライブラリは150のサブ・ルーチンからなっていたといわれている。」

イギリスのManchester Mark Iとする説
Rojas,R., Hashage, U. eds. (2000) The First Computers History and Architectures, p.xii
同書の序文では、Napper, R.B.E. “The Manchester Mark 1 Computers1″と、Burton, Christopher P. “Rebuilding the First Manchester Computer”の論文を紹介した説明文の中で、Manchester Mark Iが世界最初のプログラム内蔵方式コンピュータである、としている。
“Brian Napper and Chris Burton analyze the architecture and reconstruction of the Manchester Mark I, the world’s first stored-program computer.”

IBM PC vs Apple II

1982年半ばにおける販売予測
Wise, Deborah (1982) “The colossus runs, not plods – how the IBM PC came to be” InfoWorld, August 23, 1982によると、「今までのところ、[IBM PCに対する]市場の反応は熱狂的である。IBMは売り上げデータを発表していないけれども、アナリストはIBM PCの累計販売台数が現在50,000台にもなっており、本年末までには全部で20万台が出荷されるであろうと予測している。一方、IDCの推定によれば、Apple IIは1981年に13万5千台が売れると考えられている。」とされている。

ビル・ゲイツにおけるソフトウェアの互換性重視戦略

  1. CP/M-80との互換性を、CP-M/86よりも重視したMS-DOS
  2. マイクロソフトのビル・ゲイツ(Bill Gates)は、『MS-DOSエンサイクロベディア Volume 1:システム解説編』(アスキー)[Woodcock(1989,pp.7-8)]の刊行に寄せた文章の中で、ソフトウェアの互換性に関して次のように述べている。

    MS-DOSの作成に当たって最も重要な3つの要因は、互換性の進化、Microsoft BASICの開発とパーソナルコンビュータ業界からの広範な支持、そして、IBMによる16ビットのテクノロジーを取り込んだコンビュータの製造の決定であった。(IBM PCに対する)支持と人気にとって、MS-DOSは必要欠くべからざるものだった。」
    「1975年から1981年(8ビットマイクロコンピュータの時代)にかけて, Microsoft社は,事実上すべてのコンピニータメーカー(Raclio Shack、Commodore、Appleをはじめとする何十もの会社社)のそれぞれのマシンに、Microsoft BASICの搭載を決心させるに至った。初めて、すべてのハードウェアメーカーが足並みをそろえて共通の言語を持ったのである。我々のBASICの成功は、互換性の利点を世に示した。
    「我々はさらにMS-DOSの拡張を続け、MS-DOSが業界標準の地位に保たれるための本質たる互換性を犠牲にすることなく、もっと強力なコンピュータもサポートしてきた」

    このようにゲイツは、PC用ソフトウェア市場におけるソフトの互換性の重要性を認識するとともに、マイクロソフトの相対的競争優位の確保のために互換性確保を意識的に追求してきた。
    そのためMS-DOSの開発に際しては、8ビットPC用OS市場で事実上の標準になっていたCP/M-80との互換性確保を重要目標とすることで競争優位の確保を目指したのである。

    MicrosoftがMS-OOSの最初のバージョンを開発する際の目標の1つは, CP/M-80からMS-OOSへのソフトウェアの移植互換性である。」Woodcock(1989,p.32)
    「8086は8080と互換性はなかったが、そのアーキテクチャは8080とよく似ており、8080のソースコードは機械的に変換すれば8086の上で動作するようになっていた。Tim Patersonの8086用のオペレーティングシステム、およびこのシステムの影響を受けたMS-OOSの最初のパージョンの設計方針は、8080用のコードが8086用のコードに変換できることに大きく影響を受けている。」Woodcock(1989,p.13)
    「広範囲なアプリケーションや言語をユーザーが確実に使えるようにするには、8086用の標準的なオペレーティングシステムが絶対必要であると、Paterson(QDOSの仕事をしていた)もRod Brockも考えていた。CP/Mはすでに8ビットマシンの標準となっていたため、既存のCP/Mアプリケーションを機械的に変換して16ビットシステムで実行できるようにすることは、新しいオペレーティングシステムに向けての大きな目標の1つとなった。このような互換性を達成するために、彼が開発したシステムはFCBを採用し、実行可能ファイルへのアプローチの方法などの点でも、CP/M-80のファンクションとコマンドの仕様を模倣していた。」Woodcock(1989,pp.15-16)
    「当然のことながら、MS-DOSはまずCP/M-80、次いでCP/M-86と比べられた。最大の関心事は互換性だった。Microsoftの新しいオペレーティングシステムは、いったいどの程度まで既存の標準と互換性があるのだろうか。」Woodcock(1989,p.30)
    「最初にリリースしたMS-DOSver.l.Oは、Microsoftが思い描いていた16ビットコンビュータシステムのオペレーティングシステムの最終的な形とは違っていた。Bill Gatesによれば、「基本的に私たちがやりたかったことは、階層的ファイルシステムなど、どちらかといえばMS-DOSver.2に近いものだった。(ver.l.Oを開発する上で)鍵になったことは、『まず、サブセットでいこう。それから前進するのだ』という私の言葉だった」。/最初の版(GatesいうところのMS-DOSのサブセット)は、実際のところ、現在と未来の聞の良き妥協であった。それは、2つの点から語ることができる。まず、MicrosoftがIBMの開発計画に合わせることができたということ、そしてCP/Mとの間でプログラム変換による互換性を維持していたということである。」Woodcock(1989,p.23)
    既存の言語やWordStar、dBASEIIなどの人気のあるアプリケーションを使えるようにするために、MS-DOSは、ソフトウェア開発者が8080のソースコードを8086で実行できるかたちに機械的に変換できるように設計されていた。このために、MS-DOSはCP/M-80のように見えたし、そのように動作した。そのころCP/M-80は、まだマイクロコンビュータのオペレーティングシステムの標準だった。この8ビットの親戚と同様、MS-DOSは8文字のファイル名と3文字の拡張子を使用するほか、コマンドプロンプトの中でディスクドライブを識別する習慣を踏襲した。ほとんどの場合、MS-OOSはCP/Mと同じコマンド言語を使い、同様なファイルサービスを提供し、一般的な構造もCP/Mと同じになっていた。さらに、プログラミングレベルでの類似性には目を見張るものがあり、アプリケーションで使うことのできるシステムコールでは、CP/MとMS-DOSはほとんど1対1の対応を付けることができた。」Woodcock(1989,pp.23-24)

    MS-DOSとCP-M/86のOS競争において最終的にMS-DOSが勝利した技術的要因の一つに、ディスクを管理するFATのデザインやシステム・コールの仕様などで、MS-DOSのほうがCP/M-80との互換性が高かったことに関しては、下川和男氏も次のように述べている。

    「デジタルリサーチが、16ビット用ということで、CP/M-86に豊富な機能を盛り込んだのに対し、MS-DOSは、インテルの8086の設計思想と同様に、8ビットとの互換性を重視したのである。結果として素直に16ビットへの移行が行えるMS-DOSのアプリケーションが増加し、CP/M-86は消えていった。」下川和男(1994)
     
  3. ゲイツにおける「各社ミニコン用ソフトウェア間の互換性欠如問題」に関する認識
  4. 「互換性の進化は、Intel8080マイクロプロセッサの登場に始まる.この技術的な革新が、姿を見せ始めていたマイクロコンビュータ業界に空前の好機をもたらし、デスクトップにおけるコンビュータ利用のパワー、スピード、コストが持続的に改善されることが約束された。ミニコン市場における各ハードウェア製造業社は、それぞれ独自の命令セットとオペレーティングシステムを持っていた。したがって、特定のマシン用に開発されたソフトウェアは、他社のマシンとは互換性がなかった。この特殊化はまた、驚くべき努力の重複をも意味していた。メーカー各社はそれぞれの機種ごとに、言語コンパイラ、データベース、その他の開発用ツールを書かなくてはならなかったのである。8080マイクロプロセツサベースのマイクロコンビュータの登場によって、異なったメーカーが同ーの命令セットを持った同ーのチップを購入すると思われたので、状況は一変するものと期待された。」Woodcock(1989, p.7)
     
  5. MS-DOS vs CP-M/86
  6. IBM PCが発売された当時は、マイクロソフトのMS-DOSがIBM PC用の標準的OSとなるとは考えられてはいなかった。実際、「InfoWorld誌の1981年のベストセラーリストの10本のプログラムのうち9本までがCP/M-80、またはCP/M-86で動作するものだった。CP/M-86が使えるようになったのは6か月後だが、商業誌などでほとんどのライターや評論家が選ぶオペレーティングシステムになっていた。」Woodcock(1989,p.30)のである。「MS-DOSがCP/Mに追い付くばかりか、追い越してしまうだろうということを予見した者は1人もいなかった。Bill Gatesでさえこう回顧している。「MS-DOSを使っているマシンの数は、最も楽観的な予測の数字でさえ、実際よりも少なかった」。まず第一に、IBM PCというマシンの成功が多くの産業評論家を驚かせた。発売後1年の聞に、IBMは月当たり30、000台のPCを売った。その大部分は、すでにIBMの名前と評価に親しみを感じているビジネスコミュニティ向けであったが、後から振り返ってみる限りでは、時代がパーソナルコンビュータに向かっていたことも事実である。もちろんMS-DOSは、このIBM PCの成功によって大きな利益を得ている。それは、IBMがすべての言語とアプリケーションをMS-DOSのフォーマットで提供したためである。
    しかし、商業誌のライターは最初はまだCP/Mの優位を信じ、CP/M-80によって支配されている世界の中で、新しいオペレーテイングシステムが生き残る可能性について疑問を持っていた。彼らの多くは、CP/M-86マシンがCP/M-80アプリケーションを実行することができるという間違った認識を持っていた。CP/M-86が使えるようになる前から、Future Computing誌はIBM PCを、CP/Mレコードプレーヤと呼んでいた。これは、新しいコンビュータがCP/Mアプリケーションの膨大な資産を受け継ぐことを期待して、PCは実際にはCP/Mマシンであると考える方向に読者を誘導しようとしたものだった。
    しかし、Microsoftが確信していたのは、まったく別のことだった。IBMのマシンおよびその他の16ビットマイクロコンビュータの成功の鍵は、業界の標準となる16ビットオベレーティングシステムが出現するかどうかだということだった。」Woodcock(1989,pp.30-31)

     
    [参考文献]
    Woodcock, Joanne(日笠健、長尾高弘監訳、1989)「MS-DOSの開発」『MS-DOSエンサイクロベディア Volume 1 システム解説編』アスキー
    下川和男(1994)「ビル・ゲーツに囲まれて(前編) —- Windows HeartBeat #10」『月刊Windows World』(発行:IDG社)1994年5月号、http://www.est.co.jp/ks/billg/10_GATES.htm

NECとIntelの8086のマイクロプロセッサーの著作権をめぐる訴訟

Contreras,Jorge, Laura Handley and Terrence Yang (1990) “NEC v. INTEL : Breaking New Ground in the Law of Copyright,” Harvard Journal of Law & Technology, Volume 3, Spring Issue, 1990
http://jolt.law.harvard.edu/articles/pdf/v03/03HarvJLTech209.pdf
マイクロプロセッサーのマイクロコードの著作権をめぐるNECとIntelの裁判における1989年の判決 NEC Corp. & NEC Electronics, Inc. v. Intel Corp., No. C-84-20799, 1989 WL 67434に関する論文。
同論文によると、 それ以前の判決 NEC Corp. v. Intel Corp., 645 F. Supp. 590 (N.D. Cal. 1986)は、判決を下した地裁判事がインテルの株式を所有していたことが判明したため無効となった。[NEC Corp. v. U.S. Dist. for N. Dist. Cal., 835 F.2d 1546 (9th Cir. 1988)]
同論文によると、判決の主要内容は下記の3点である。
1) インテルのマイクロプロセッサーのROMの中に埋め込まれているマイクロコードは著作権保護の対象となること
2) マイクロコードに関するリバースエンジニアリングはマイクロコードの著作権を侵害するものではないこと
3) 類似のマイクロコードを「クリーンルーム」で独立に開発した場合には著作権侵害を犯していないことの説得的証拠となること

PCの歴史関連資料

1000Bit
http://www.1000bit.it/
1970年代後半期および1980年代おけるPC関連のデータベース、および、下記URLからパンフレット、広告、マニュアルなどの資料を見ることができる。

山田昭彦(2014)「パーソナルコンピュータ技術の系統化調査」『国立科学博物館技術の系統化調査報告』(産業技術史資料情報センター)Vol.21、pp.218-319https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/086.pdf

インテルの社史

インテルの社史をインテル社の下記Webサイトからダウンロードすることができる。
http://www.intel.com/about/companyinfo/museum/archives/anniversary.htm
インテルの15年史
A Revolution in Progress (1968-1983)
印刷用PDF
インテルの20年史
Intel: Architect of the Microcomputer Revolution (1968-1988)
印刷用PDF
インテルの20年史
Defining Intel: 25 Years/25 Events (1968-1993)
印刷用PDF
インテルの35年史
Intel: 35 Years of Innovation (1968?2003)
印刷用PDF

1970年代前半期のmicrocomputerの広告等における性能・機能の「誇張」表現問題

1970年代前半期にはmicrocomputerに関する広告やマニュアルでは、下記のようにmicrocomputer製品の機能・性能がminicomputerと匹敵するかのように論じられているが、これはmicrocomputerやPersonal computerが製品カテゴリーとして認知されてはいないために最も近い既存製品カテゴリーに位置づけたことや、製品拡販のために一定の「誇張」表現を必要としたことによるものである。
1)R2E(Réalisation d’Études Électroniques)のMIcral(1973)
Micralは「極めて低コストであることを主要な特徴とする、初めての新世代ミニコンピュータである」(Réalisation d’Études Électroniques(1974) Micral Users Manual, p.76)とか、「普通のミニコンピュータが目的としない」プロセス制御がMicralの主要用途である(ibid.,p.66)とされている。
Réalisation d’Études Électroniques(1974) Micral Users Manual
http://bitsavers.org/pdf/r2e/MICRAL_N_Users_Manual_Jan74.pdf
2) MITSのAltair8800(1975)
MITSのAltair8800に関して、Popular Electronicsの1975年1月号表紙におけるキャッチコピーは 「商用モデルと競う、世界最初のミニコンピューターキット」(World’s first minicomputer kit to rival commercial models – the Altair 8800)、「これまでになされた中で最も強力なミニコンピューター・プロジェクト」(The most powerful minicomputer project ever presented – can be built for under $400)というものであり、Altair8800をminicomputerとするような記述がなされている。
 またRoberts, H. Edward and William Yates (1975) “Exclusive! Altair 8800: the Most Powerful Minicomputer Project Ever Presented-Can be Built for Under $400,” Popular Electronics, January 1975, p.34においては、「[Altair]8800で使用されているCPUのインテル8080というLSIチップは、・・・現在の商用ミニコンピューターとその性能を競うミニコンピュータを創る役に立っている」(The CPU used in the 8800 computer, the Intel 8080 LSI chip, is relatively expensive in quantities of one. It was selected, however, because it serves to create a minicomputer whose performance competes with current commercial minicomputers)と言うように主張されている。
 なお同論文のp.33ではAltair8800で使用されているインテルのCPU8080の「基本命令語は78語であり、通常のミニコンピューターの40語よりも多い」( It has 78 basic machine instructions ( as compared with 40 in the usual minicomputer)).とも書かれてている。