演算素子の歴史的発展の主流の流れは、歯車から真空管へ、真空管から半導体へと進んだ。真空管とほぼ同時期に存在した演算素子に電磁リレーとパラメトロンがあり、それらを用いた計算機が電磁リレー式計算機とパラメトロン式計算機である。
パラメトロンは1954年に後藤英一によって発明された演算素子であり、その当時、日本では「真空管に比べると価格が非常に安い」、「電磁リレーよりも高速動作が可能である」、「トランジスタよりも信頼性が高い」というように評価され、数十台のパラメトロン式計算機が製造された。しかしトランジスタの信頼性向上や低価格化により、結果的には、演算素子として主役の座を得ることはできなかった。
なおアメリカでは、フォン・ノイマンが1954年4月28日と後藤英一よりも1か月ほど早く特許申請をしているが、同特許の実用化へ向けた具体的な取り組みはなされなかった。これは、「電磁リレーよりも高速動作が可能である」が、「真空管やトランジスタよりは低速である」ことが問題とされたと推定される。
日本人の発明になる日本独自タイプの演算素子にパラメトロン(Parametron)がある。パラメトロンを演算素子や記憶素子として利用したcomputerの開発が日本では1950年代後半に積極的に進められた。
20世紀中頃におけるcomputerの研究開発において、日本では演算素子としてリレー、真空管、トランジスタと並んでパラメトロンが利用されたのである。
パラメトロンとは、「計算機に必要な三作用、即ち記憶、論理演算、増幅がすべてこの一つの素子によってできる」(高橋秀俊,1968,p.3)という特徴を持つ素子であり、後藤英一が1954年に考案したものである(注1)。パラメトロンは、フェライトの環状磁心にコイルとコンデンサーを組み合わせた共振回路をもつ電気的な回路素子であり、機械的可動部を持たないというその構造から言えば、パラメトロンを演算素子として利用した計算機は電子的計算機の系列に位置づけることができる。
パラメトロンは、その発明当時の対抗技術である真空管と比べ構造が簡単で信頼度が高く(注2)、コスト的にも安かった(注3)ことや、リレーよりも高速であったことなどから、電電公社電気通信研究所のMusashino-1(1957)(注4)、Musashino-1B(1960)、東大のPC-1(1957)、PC-2(1960)、日立のHIPAC MK-1(1957)、HIPAC101(1960)、HIPAC103(1961)、富士通のFACOM200(1958)、FACOM212(1959)、NECのNEAC1101(1958)、NEAC1103(1960)などいくつものパラメトロン計算機が製作されている。
パラメトロン計算機は、それと同時代のリレー式計算機や真空管式電子計算機よりも優れた面を持っていたが、真空管の次世代技術であるトランジスタに比べて集積度・速度・消費電力の点で劣っていた。
例えば高橋茂(1996,p.12)は、電気試験所でトランジスタ式電子計算機の開発に取り組もうと計画していたグループがパラメトロン採用をもちかけられ、その性能をチェックした時に、「原理はおもしろいけれども、トランジスタに比べていかにも動作が遅く、消費電力が大きいことを実感し・・・最初の計画通りトランジスタで進むことを決めました」と書いている。
実際、トランジスタ式電子計算機のETL Mark III(1956)は300W、ETL Mark IV(1957)は550Wと小さかった(Takahashi,1986,p.148およびp.150)のに対して、パラメトロン計算機のMusashino-1(1957)の消費電力は4.76kW(Muroga&Takashima,1959,p.315)と大きかった。
温度特性の優れたシリコントランジスタの登場など1960年代におけるトランジスタ技術の進展の結果として、トランジスタに対するパラメトロンの大きな利点であった信頼度が「あまり大きな特色とはいえなくなった」(高橋秀俊,1968,p.3)結果として、「パラメトロンは日本の電子計算機工業にとって大きな道草であった」という批判(高橋秀俊,1968,p.iii)が1960年代後半には見られるようになった。
集積度・速度・消費電力の点で劣るだけでなく、信頼度の点でもさほどの性能差別化が確保できなくなったパラメトロン計算機は、1960年代末には「現在の所、大型機には明らかに不利、中型機にはあまり有利ではない」(高橋秀俊,1968,p.18)という事態に直面することになった。
価格の問題に関しては、1960年代後半の時点でもなお「パラメトロン素子の価格をトランジスタによる相当論理素子と比較する場合、速度のことを問題にしない限りパラメトロンの方が格段に安いことは間違いのない事実」(高橋秀俊,1968,p.17)であったから、小型機に関してはまだ可能性があると考えられていたが、トランジスタの相対的な低価格化、ICやLSIの登場の結果として、結局のところパラメトロンは技術的主流になることがなく、日本独自の技術としての位置づけに止まった(注5)。
高橋秀俊(1972,pp.81-82)は、パラメトロンの特許出願をドイツにした時にフォン・ノイマンの特許との類似性を指摘され、アメリカの特許を調べて「まさに原理的にはわれわれのパラメトロンと同じであり、しかもむこうのほうが、たった一月だが早く出願されていることがわかり、非常に驚いた」としている。なお、Muroga&Takashima(1959)論文のレフェリーも、パラメトロンとフォン・ノイマンとの類似性を指摘している。
注2 点接触型トランジスタを演算素子として利用した日本最初のトランジスタ式電子計算機ETL Mark III(1956)の開発に携わった高橋茂は、「困ったのが点接触型トランジスタの劣化でした。・・・昨日取り替えたばかりのトランジスタがもう故障だなどということもしばしば」(高橋茂,1996,p.13)であったと当時の点接触型トランジスタの信頼度の低さを証言している。また真空管の信頼度の低さに関しては、高橋秀俊が真空管式電子計算機に関して真空管を「毎朝テストして、何本か不良品を取り替えるというのが常識だった」(高橋秀俊,1979,p.143)と証言している。
注3 パラメトロン開発を主導した高橋秀俊は、「パラメトロンは・・・安価で、安定な部品だけから組み立てられていること、そうして、これ一種で完全な論理回路が組めるということが特徴で、特にまだトランジスタが非常に高価であった当時、価格の点でまったくユニークなものと思われた」(高橋秀俊,1968,p.3)としている。実際パラメトロン計算機の開発開始時点の1954年当時で、パラメトロン素子は一素子あたり約五百円という低価格であったが、「同じだけのものを真空管でつくれば、廉く見積もって一万円はしただろう。トランジスタにいたっては当時は1個が数千円もした」(高橋秀俊,1972, p.62)のである。ただしパラメトロン計算機の完成時点の1957年頃には「トランジスター素子の速度はずっと速いので・・・結局、価格の点ではそれほど違わない」(高橋秀俊,1972,p.62)という結果になっていた。
注4 Musashino-1は1957年3月に運転開始した日本最初のパラメトロン計算機であるが、7400個のパラメトロン(制御装置用1600個、算術演算装置用2800個、磁気コアメモリ用1000個、磁気テープメモリ用2000個)とともに、679本の真空管(算術論理演算装置用280本、磁気コアメモリ用239本、磁気テープメモリ用160本)も使用されており(Muroga&Takashima,1959,p.309)、いわばハイブリッド型の電子計算機であった。
MUSASHINOー1(電電公社、喜安善市の指揮のもとで室賀三郎らが設計、1957年3月)
MUSASHINO─1B(MUSASHINO ─ 1 と同じ論理構成を持つ後継機、富士通によりFACOM 201として製品化)
PC-2(後藤英一らが1958 年に東大理学部で試作したPC ─ -1 の後継機、大型パラメトロン計算機として,富士通で製作され,FACOM202として販売された)
HIPAC MK ─ 1, 101, 103(日立製作所)
NEA ─ 1101, 1102,1103, 1201(日本電気)
OPC ─ 1(沖電気)
MELCOM 3409(三菱電機)
KODIC ─ 401,402 (光電製作所)
- 小山俊士(2014)「二つのパラメトロン ―フォン・ノイマンと後藤英一の特許」『東京大学教養学部哲学・科学史部会 哲学・科学史論叢』16, pp.57-81
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/35863/files/tkr016003.pdf - パロメトロン計算機記念会「パロメトロン計算機 PC-1 1958 – 2008」42pp
https://www.iijlab.net/~ew/pc1/pc150th.pdf - 高橋秀俊編(1968)『パラメトロン計算機』岩波書店
- 和田英一(1996)「パラメトロン計算機PC-1 –回路設計と方式設計–」
https://www.iijlab.net/~ew/pc1/summer96.pdf - コンピュータ博物館「【東京大学】 PC-1 パラメトロン式計算機」情報処理学会コンピュータ博物館 > 日本のコンピュータ > 黎明期のコンピュータ
- 「後藤英一 パラメトロンから量子コンピュータまで」(月刊アスキースペシャルインタビュー2)『Ascii』 Vol.17, No.6(1993 年6 月号)
https://museum.ipsj.or.jp/computer/dawn/0016.html - 和田英一、相馬嵩(2005)「後藤英一(ごとう えいいち)1931〜2005
」情報処理学会コンピュータ博物館 > 日本のコンピュータパイオニア
https://museum.ipsj.or.jp/pioneer/gotou.html - 遠藤諭(2016)「日本独自のコンピューター素子を生んだ男、後藤英一」『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』刊行記念インタビュー第2回
https://weekly.ascii.jp/elem/000/001/221/1221954/ - 鈴木志乃(2019)「コンピュータ開発史に輝く後藤英一の挑戦」『RIKEN NEWS』(理化学研究所)2019年2月号「記念史料室から」
https://www.riken.jp/pr/historia/comp/index.html - 大岩元(2017)「スター・サイエンティスト後藤英一教授とマネジメント」『研究・イノベーション学会年次学術大会講演要旨集』32、pp.572-573
https://web.archive.org/web/20241225193457/https://dspace.jaist.ac.jp/dspace/bitstream/10119/14848/1/kouen32_572.pdf
- 大井電気株式会社(2010)「アレフゼロ101(世界初のパラメトロン素子を用いた電子式卓上計算機)が重要科学技術史資料に登録」大井電気株式会社ニュースリリース、2010年10月6日
アレフゼロ101は、世界初のパラメトロン素子を用いた電卓である。大井電気は、日本最初のパラメトロン電子計算機(MUSASINO1号)の開発に際し、パラメトロン素子の製作を依頼されて供給したことを契機に、1962年末頃よりパラメトロン素子を用いた電卓の開発に取り組んだ。
当時の電動計算機は、「値段が高く、重い」だけでなく、歯車式であったことから動作時に「大きな騒音」を発生させた。そこでパラメトロン素子を使って小型化を図ると同時に、静音化を実現することで、相対的競争優位を獲得できると考えたのである。
1963年8月には日本で初めて電卓の試作に成功した。トランジスタではなくパラメトロンを約1700個を用いた同製品は、「アレフゼロ101」(大きさ550×520×380mm)として商品化され、1,964年4月から大学の研究室などに販売された。
大井電気は1,000台のアレフゼロを製造・販売したが、最終的には価格が80万円と競合他社製品よりも高価格であったこと、消費電力が300Wもあったこと、パラメトロン素子が地磁気の影響を受けやすいことなどから、1970年には電卓販売から撤退を余儀なくされた。
アレフゼロ101は、テンキー操作を採用し、表示桁数10桁で表示にはニキシー管を使用し、消費電力は300Wと大きかった。四則演算[加減算 10桁 乗算 20桁 除算 10桁(剰余10桁)]、一定数乗除算、累積、自乗、開平[9桁]などを簡単な操作で実行できた。また浮動小数点方式を採用し、小数点の位取りは自動的になされた。


























