コンピュータ関連市場データ

Supercomputer、Mainframe、Midrange、Workstation、Personal computerの出荷金額および出荷台数の歴史的推移1990-1995
 

FACTORY REVENUE (mil. dol.)
[Revenue is in if-sold, end-user dollars]
computer-factory-revenue-1990-1995.xlsx

 

SHIPMENTS (units)
computer-shipment-1990-1995.xlsx

 
1990年、1994年、1995年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1997) Statistical Abstract of the United States: 1997 (117th Edition)
No. 1251. Computer Shipments and Revenues: 1990 to 1995
https://www2.census.gov/library/publications/1997/compendia/statab/117ed/tables/manufact.pdf

1991年、1992年、1993年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1995)Statistical Abstract of the United States: 1995 (115th Edition)
No. 1268. Computer Shipments and Revenues: 1991 to 1993
https://www2.census.gov/library/publications/1995/compendia/statab/115ed/tables/manufact.pdf

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移1984-2014

Martin, M. (2021) “Computer and Internet Use in the United States: 2018” American Community Survey Reports, April 2021, p.3
https://www.census.gov/library/publications/2021/acs/acs-49.html
https://www.census.gov/content/dam/Census/library/publications/2021/acs/acs-49.pdf

上記のグラフでは、コンピュータの家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1984-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が、
インターネットのサブスクリプション契約の家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1997-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が描かれている。

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高(単位 100万ドル)

会社名 1979年 1982年
Apple 75 664
IBM  –  500
Tandy {Radio Shack) 150 466
Commodore 55 368
Hewlett-Packard NA 235
Texas Instruments  –  233
Digital Equipment Corp.(DEC)  –  200

[引用元]
International competitiveness in electronics, University of Michigan Library,p.149のTable 38.-Major U.S. Manufacturers Ranked by 1982 Worldwide Microcomputer Sales
[原出典]
1979年 ”The Datamation 100,” Datamation, June 1980, p 87
1932年 Archbold,P. (1983) “The Datamation 100 Welcome to the Club,” Datamation, June 1983, p.87

リレー式計算機

プログラム駆動型の機械的計算機の実用化は、歯車駆動の動力源に関する蒸気動力や電気動力というイノベーションによってではなく、演算素子に関する「歯車」から「リレー」(継電器)へのイノベーションによって実現された。リレーとは、電磁石に電流を流すと発生する磁力を利用してスイッチのオン・オフを機械的におこなう装置である。

ただし新しい演算子であるリレーという機械的部品は、より高速な機械的計算機に対する必要性に対応して新規に発明されたものではなく、電話交換機用の部品として既に利用されていた部品である。歯車を演算素子とする機械的計算機の高速化のための技術的シーズ(seeds)としてリレーが利用されたのである。

 
リレーを演算素子とする機械的computer
 リレーが演算素子として利用可能であることは1930年代後半に広く知られるようになった。プログラムが動作するリレー式計算機の最初期のものに、ドイツのツーゼ(Konrad Zuse,1910-1995)のZ2(1939、リレー数600個)やZ3(1941、演算処理用600個、記憶処理用1,400個でリレー総数2,000個)、アメリカのエイケン(Howard Aiken)が考案しIBMが製作したHarvard Mark I(1944、リレー数3,304個)などがある。
エイケンのハーバード大学における博士論文の指導教授 E. L. Chaffeeの専門は真空管および真空管回路であり、エイケンの博士論文も真空管に関わるエレクトロニクス分野のものであったにも関わらず、エイケンがHarvard Mark Iにおいて演算素子として真空管ではなくリレーを選択したのは、技術的問題というよりは「製造コスト」および「実際の設計・開発を担ったのがIBMであった」という二つの要素によるものである。
例えばエイケンはリレーを選択した理由に関するインタビューの中で、「答えは製造コストにある(the answer is money)」、「真空管を用いたデジタル・カウンターの技術を利用することで、電子的部品を用いて製造可能なことは明らかであった。・・・もしRCAが興味を持っていれば、[真空管を用いた]電子的計算機となったであろう」(Cohen,1999,p.43、[]内は引用者による補足)と述べている。
リレー式計算機は第二次大戦中だけでなく、Harvard Mark Iの後継機Harvard Mark II(1947)などに見られるように第二次大戦終了後も製作されている。ENIAC(1946)やEDVAC(1948)など真空管式電子computerが登場した後に、リレー式computerが単純に時代遅れのものとしてすぐに廃れたわけではなく、その研究・開発は引き続き行われていた。
戦後日本でもリレー式計算機の研究・開発がおこなわれている。例えば日本で最初に製作されたデジタル式計算機である電気試験所のETL Mark I(1952)はリレー式computerであったし、その後継機のETL Mark II(1955、リレー数22,253個)もリレー式computerであった。また富士通は、1950年代には真空管式電子computerの研究開発が主流であったにも関わらず、「当時の真空管の動作があまりにも不安定だった」ことや「電話交換機に用いられる部品であるリレーに関して優れた技術的蓄積が社内にあった」といった技術的理由からFACOM 100(1954)という日本初の実用リレー式computerを開発するとともに、その後もFACOM128A(1956)、FACOM128B(1958)、FACOM138A(1960)などリレー式の大型computerの研究開発・販売をおこなっている。
 
「リレーを演算素子とする機械的calculator」としてのカシオリレー計算機14-A(1957)
プログラム型計算機であるcomputer分野だけでなく、四則演算など数値計算を主とする計算機であるcalculator分野においても、リレー式計算機の研究開発がおこなわれている。

たとえばカシオ計算機は、1957年にリレーを用いた卓上型電子calculator「カシオ14-A」(消費電力300W、重量120kg、高さ78cm×幅101cm×奥行42cm)を完成させ485.000円で販売を開始した。「カシオ14-A」は、テンキー入力で数値をランプで表示する方式を採用しており、リレー式であることから歯車式に比べて加減算で3~4倍、乗算で6~7倍という早さで14桁の計算をした。なおテンキー方式を採用したのは、卓上型calculatorとして数値入力部の大きさを小さくするためであった(フルキー方式の卓上型calculatorでは四則演算可能な桁数を大きくすればするほど、桁数に比例して入力部のスペースが大きくなってしまう。)。

[図の出典]内田洋行の1958年のカタログ[電卓ミュージアム所蔵、http://www.dentaku-museum.com/calc/calc/2-casio/1-casiod/br/b-1.jpg]
上記カタログでは、「わが国には,欧米各国より,多種多棟の電気計算機が輸入されておりますが,それらの電動計算機は,純機械的な構造のため,機能的な限界があり,止むところを知らない近代企菜の発展には,どうしても適応しない,と云う大きな欠陥がありました。」とした上で、「觉子計算機と共に計算機の双璧とも云われる継電器(リレー)による純国産の計算機」を開発した、としている。なおかつカシオは、従来のリレー式電子計算機が富士通のFACOM 100(1954)やFACOM128A(1956)などのように「実験室または研究室用の著しく大型」のものではなく、機能・性能を絞ることによって小型化した、としている。
 リレーを演算素子とすることにより、「故障がほとんどなく、数千万回の動作にも耐える」、 「本機の計算速度を電動計算機の回耘数に換算すると毎分1300〜1500回転の速度に相当し,軽快なキータッチで正確な答が得られる。」などといった「電動計算機の遠くおよばない数多くの特長」を備えることができるようになったとしている。
 リレー式電子computerでは22,253個ものリレーを利用したETL Mark II(1955)などに見られるようにプログラム演算、メモリなどの多様な機能を実現するために多数のリレーが使用されていた。これに対して普通の事務作業用途での使用を想定し、小型軽量化や低価格化を実現するとともに、四則演算などに機能を限定したcalculatorであるカシオ14-Aでは使用するリレーの数を342個までに減らしていた。
カシオはその後もリレー式計算機の開発を続け、1964年6月にはカシオ401を、1965年5月にはカシオ402を発売している。

富士通のリレー式計算機

https://www.fujitsu.com/jp/about/plus/museum/relay/
富士通は、富士通沼津工場池田記念室に設置されているFACOM128Bと、川崎工場富士通テクノロジーホールに設置されているFACOM138Aに関して、動態保存をおこなっている。本WEBページはそのことに関する紹介ページである。
リレー式計算機とは、演算素子として電磁リレーを用いた計算機である。リレー式計算機では、電磁リレー(電磁石を使ったスイッチ)の接点に電流が流れるか流れないかを電気回路のON/OFFに対応させて計算を行っている。
 FACOM128Bでは、CPU(中央演算処理装置)部分に約5000個のリレーを使用している。同機では「リレーは機械的に動作するため、接触不良を起こしにくい回路設計やリトライ機能(自己検査機能)に工夫がこらされた」とされている。
 
2.電磁リレーの動作図
電流が流れていると、図aのように電磁石に発生した磁力によって接点が「吸引」されて「ON」状態となる。電流が流れていないと、電磁石の磁力がなくなるため、ばねによって図bのように接点が元の位置に「復帰」し「OFF」状態となる。

松下電器製造・技術研修所編(1978)『制御基礎講座1 プログラム学習によるリレーシーケンス制御』廣済堂出版、p.63。
 
3.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)の広告(1957年)
以下の広告は、科学技術庁監修(1957)『科学技術展望』Vol7 No2に掲載されていたものである。

広告1.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)のスペック広告(1957年)
プログラミングが容易であることを第一の特長として挙げるとともに、第2の特長として「演算速度が大」とし「本機によって演算を行うときは人手を用いる場合の100倍以上の能率を上げることができます」とされている。
 電磁リレーは機械的装置であるため、その演算速度は現代的視点から見るとかなり遅かった。すなわち演算の実行速度は、加減算0.15秒、乗算0.15~0.4秒、除算および開平算 0.2~1.4秒などというように、低速なマシンであった。

 
広告2.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)のシステム構成に関する広告(1957年)
リレー式計算機(図では継電器架と表記されている)の入出力装置として、カードリーダー、数値テープ読取機・穿孔機、命令テープ読取機、印刷機、テープ作製台が例示されている。
また用途として、「天体科学、工業技術、経済数理、その学術一般」を挙げている。

富士通リレー式計算機のシステム構成

 
広告3.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)の製造プラントにおけるプロセス・オートメーション利用に関する広告(1957年)

マイクロプロセッサおよびコンピュータの用途としての「遊び」の認知ー米国における先行性

遠藤諭(2019)「TK-80、PC-8001、NECのパソコンはこんな偶然から始まった」遠藤諭のプログラミング+日記 第67回、2019年08月08日
https://ascii.jp/elem/000/001/912/1912291/

「知った瞬間なんていうと突然目の前に現れたみたいですが、NECのICを製造している部門が『これからはマイコンチップ』だろうと言い出したんですね。インテルとほぼ同じ頃に、μCOM4という4ビットのマイコンを作ったんですよ。ところが、半導体チップというのは、作るとなると一度に何千個もできてしまう。社内では『これほど大量に製造して、使い道があるのか?』という声がありました。そんなときに、私が、マイコンチップの販売を命じられたのです」
マイクロコンピュータ販売部の部長に任命され、半期にチップを1億円売れというノルマが課せられた。ところが、トランジスタは「真空管からの置き換え」だったが、マイコンチップは、いままでまったく存在しなかったニーズを引き出すことから始まる。「むこうは自社製品にマイコンチップを使うなど考えたこともない。話にならないんです」という状況だった。このまま暗中模索ということになりそうだが、すぐに腰を上げて動いてしまうのが渡邊氏だった。
 「まずはアメリカで4004がどういう市場で使われているのかを調査ですよ。当時、カリフォルニアのベイエリアでマイコンクラブが結成され始めた頃でした。『ピープルズ・コンピュータ』というクラブ会報の『ドクター・ドブズ・ジャーナル』が創刊された頃で、その会合にも行きました。そこには、ジーパン姿でラフな服装をしたヒッピーのような人々ばかりがいましたが、彼らは、『コンピュータなんかオモチャに使う時代だよ』など、当時の日本では思いもつかないことばかり言っていましたね。帰国して『アメリカではコンピュータの概念が覆っている』と報告しますと、会社の上層部に『コンピュータを遊びに使うなんて不謹慎だ』と言われた時代でした。今では嘘みたいな話ですけど、本当にそういうムードでした」
 

マイクロプロセッサーの販売拡大手段としてのマイコンキット

「座談会ーパソコンが社会生活•文化を変える」『パソコン白書92-93』p.185
「メーカの立場から言いますと,パソコン開発の動機はある意味で不純でした。マイクロコンピュータをいかに拡販していこうか。そのためにはこんなマイコンのキットをつくったらいいのではないか。パソコンみたいなものを構築できるのではないかというところからスタートしたのです。」
[注]上記引用文章における「マイクロコンピュータ」という用語で意味しているのは、現代的用語でいえばマイクロプロセッサのことである。
 
8ビットマイコンは、市場を開拓しなければ売れないという点においては4ビット以上だった。しかも、買う側に、それを使いこなす能力(リテラシー)がないとそもそも動機づけも発生しない。国内では、まだまだ4ビットの需要がほとんどで、「8ビットはいらない」という声もあったという。そのため、μCOM80は、とにかく絶望的に売れていなかった。

 ユーザー教育のために、渡邊氏は、「NECマイコン教室」というものを全国あちこちで開くことにする。マイコン自体の認知が少しずつ進んでいたこともあって、小さな会社から大企業の社員までが集まった。ところが、なんとかマイコンを使った製品を自社でも作れないかと、がんばって勉強してくれるのだがなかなか習得が進まない。

 「コンピュータの教育というのは、当時、どうやってやっていたかといいますと、教室で黒板とテキストを使って講義をしていたのですね。しかし、それでは、3回きいても4回聞いてもなかなか理解できないんです。ところが、実物を相手にして、コンピュータの反応を直に自分で体験していくと、いままで30分かけないとわからなかったことが、あっという間に頭に入ってしまうんですね。それで、これは教材を作らないといけないというわけで、教材を開発することになったのです」

「マイコンチップ自体がコンピュータですから、これをプリント基板にのせて作るわけですが、問題は入出力機器です。当時、そのような場合にはASR-33という端末が有名でしたけど、いわゆるテレタイプをつなぐのですが、それだと教室に一台しか持ちこめない。しかも、その一台は先生がやってみせるだけで肝心の生徒はいじるわけにも触る訳にもいかない。それでは教育効果があろうはずがありません」

―― それで生徒各人がもてる教材を作った!

 「そうです。みんなの机にのるだけでなく、入出力機器まで備えたワンボードコンピュータが、いちばん効率的だろうということで開発することにしたのです。それが、TK-80になるわけですが、これはコンピュータとして売っていこうというつもりで作ったのではなく、『マイコンを知ってもらうためにはどうしたらいいか?』ということで作ったのですね。したがいまして、名前もTKは《トレーニングキット》となるわけです」
 

 しかし、教材を作ろうと決めてからが苦労の始まりでもあった。NECは代表的なコンピュータメーカーだったが、とてもこのような教材を作るのに社内の協力を得られるとは思えない。そこで、マイクロコンピュータ販売部の中で、後藤富雄、加藤明、半田幹夫の3名を中心にして、ワンボードマイコンの開発にあたることになる。

 

バンダイのピピンアットマーク(1996年3月):アップルとバンダイの共同開発によるゲーム専用機

総販売台数 4万2千台[北村ヂン(2019)]

[図の出典]日本語版ウィキペディア「ピピンアットマーク」https://ja.wikipedia.org/wiki/ピピンアットマーク

嬉野勝美(1996)p.48によると、アップルとバンダイの共同開発によるゲーム専用機ピピンアットマークに関して、バンダイは同機の開発に100億円を投資し、Appleも1996年1月の株主総会で同機を端末として活用していくと発表している。
宮河恭夫(当時、バンダイ・デジタル・エンターテインメント取締役)が映像産業振興機構(2019)の中で語っているところによれば、ピピンアットマークの事業を担っていたバンダイ・デジタル・エンタテイメント社が解散した時の特別損失の額は、270億円と当時のバンダイの利益を上回る巨額なものであった。

 
価格
基本セット49,800円(税抜価格)
専用モデムが付いたネットワークセット64,800円(税抜価格)
[電話線接続によるインターネット接続サービス「アットマークチャネルクラブ」サービス(月額2,000円)]
 
仕様
画面出力解像度:640ドット×480ドット
CPU:PowerPC 603(66MHz)
RAM:6MB
4倍速CD-ROMドライブ
 
付属品、ソフト
ATMARKコントローラー
通信対応総合ソフト「テレビワークス」
ユーティリティソフト「PEASE」
 
別売品、対応品
専用キーボード(9,800円)
専用1.44MBフロッピーディスクドライブ装置(12,000円)
Apple Color StyleWriter 1500等のプリンタに対応
 
 
バンダイのピピンアットマーク関連WEB記事

  1. 北村ヂン(2019)「世界で一番売れなかったゲーム機「ピピンアットマーク」を買ってみた」デイリーポータルZ、2019年4月28日
    https://dailyportalz.jp/kiji/play-the-pippin-atmark

  2. PCウォッチ編集部(1998)「バンダイ、ピピンから撤退。BDE清算」PC Watch、1998年2月27日
    https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/980227/bandai.htm

  3. 嬉野勝美(1996)「500ドルマック「ピピン」の行方」『マイクロソフト・インターネット制覇の戦略』TBSブリタニカ,pp.48-50
    宮河恭夫(当時、バンダイ・デジタル・エンターテインメント取締役)が「ピピンは今までパソコンやインターネットさえ知らなかった、という人向けの商品なのですが、(市場に現れた最初のネットワークコンピュータということで)むしろ従来からのコンピュータユーザーの方の購入も非常に多い。反響の大きさに驚いています。手応えはかなり感じますね。」と述べていることに関する、p.50に紹介されている成毛真の予想が興味深い。すなわち同氏は、「インターネット端末」としてのピピンという製品コンセプトが適切ではないことを次のように語っている。

    「ピピンのコンセプトは比較的わかりやすい。悪くないと思う。彼らは成功するかも知れない。ただオラクルやIBMのいっているようなネットワークコンピュータの場合、ビジネスのコンセプトやマーケティングのコンセプトはわかっているんだけれども、製品のコンセプトが全然わかっていない。500ドルのノートパソコンでインターネットをやろうとしたら、パソコンの値段よりも実はコミュニケーションコストの方がどの国も高い。ISDNを入れたらアメリカにしろ、日本にしる500ドルより高い、年間に払うお金が。年間で10万円以上通信費用を払える人がなんで500ドルパソコン買わなきゃいけないの、ってことになる。普通1000ドルのパソコン買いますよね。経済的な面の認識が甘い。・・・大失敗という報道が一年以内にあるんじやないか」

  4. 大陸新秩序(2020)「“世界で最も売れなかったゲーム機”ピピンアットマークの真実とは。「黒川塾 七十六(76)」聴講レポート」2020/06/01
    https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20200601101/

    メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏がホストを務めた2020年5月30日開催のトークイベント「エンタテインメントの未来を考える会 黒川塾 七十六(76)」の聴講レポート
    メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏と同姓同名のF2代表取締役社長の黒川文雄氏によるピピンアットマークに関する回想。黒川文雄氏は1995年からMacOSの販売代理人としてピピンアットマークの開発に携わった経験に基づき、次のような興味深い事実を紹介している。

    ピピンアットマークの企画のきっかけは,当時バンダイビジュアル株式会社がリリースしていた各種のマルチメディアCD-ROMソフトのタイトルをMacなど高価格なPCを使わずに再生できないかという話からであった
    当時財政的に厳しい状況に陥っていたAppleは、子どもをターゲットとした低価格機にMac OSをライセンスすることでライセンス収入の拡大を意図していた。

  5. 映像産業振興機構(2019)「バンダイナムコエンターテインメントの社長が語る、これまでの挑戦と失敗。成功体験から学ぶ、挑戦する人が生き残れる会社へ。」(VIPOアカデミー「コーポレートリーダーコース」講演より再構成)2019.11.21
    https://www.vipo.or.jp/interview/list/detail/?i=1505

    宮河恭夫(当時、バンダイ・デジタル・エンターテインメント取締役)が当時を振り返って次のように製品コンセプトを語っている。

    「その頃、CD-ROMのゲームが流行り始めた時代だったので、ハードディスクを持たないマルチメディア機を開発しようと思ったんです。その時の広告コンセプトは高城 剛さんが挙げてきた「インターネットをテレビで見よう」というコピーで、私は「これだ!」と思いました。しかし、早すぎた。(笑)
    当時、インターネットは雑誌で見るものだったんです。インターネットが普及し始めて、「wwwはこんな世界だ」と雑誌で画像写真を載せて紹介していました。そんな時代に「インターネットをテレビで見よう」なんて言われても誰もピンときませんよね。それに技術も追いついていませんでした。」「「3歩先より半歩先」ということです。「ピピンアットマーク」は完全に30歩くらい先を行っていました(笑)」

  6. Innocente, F.(2018) “Pippin, le symbole d’une Apple qui n’existe plus” 2018/05/01
    https://www.macg.co/materiel/2018/05/pippin-le-symbole-dune-apple-qui-nexiste-plus-102052

  7. MOSS, RICHARD (2018) The Secret History of Mac Gaming, Unbound, 416pp
    MOSS, RICHARD “The Mac gaming console that time forgot:From the new book, The Secret History of Mac Gaming, remember Project Pippin?” 2018/3/24
    https://arstechnica.com/gaming/2018/03/the-mac-gaming-console-time-has-forgot/