1982年当時、「アップル社は消費財メーカーとして技術企業ではなく、技術者はまったく求めていない」ことをジョブズとマークラは確認している

「一九八二年下期に入って、エストリッジの引き抜き話が終わったころ、ジョブズとマークラは、ア ップル社は現実には消費財製造会社であって技術企業(a technology enterprise)ではなく、実は技術者(technologist)はまったく求めていないのだ、ということを確認した。」ローズ, F.(渡辺敏訳,1990)『エデンの西ーアップル・コンピュータの野望と相克』サイマル出版、p.132

Rose, F.(1989) West of Eden: The End of Innocence at Apple Computer, Viking,p.74
“In the latter part of 1982, in the wake of the Estridge episode, Jobs and Markkula had decided that Apple was actually a consumer-products company, not a technology enterprise, and that they didn’t really want a technologist at all.”

IBM PC(1981)用グラフィカル・ユーザーインターフェース

ビジカルク(VisiCalc9を開発・販売していたビジコープ社によるIBM PC(1981)用グラフィカル・ユーザーインターフェースの市場的失敗-DOS用アプリがその上で動作しない、動作が遅い、価格が高い、要求ハードウェア水準の高さ
 
「パーソナルソフトウェアは、同社の主要製品であるビジカルクを前面に出すためビジコープと社名を変えた。ビジコープは、ラスベガスで開かれた1982年秋のコムデックスで、「ビジオン」(コ—ドネーム「クエイザー」)という名前の高性能IBMPC用のグラフィカル•インタ—フェイスを公開し、再び注目を集める。この時アップルはまだリサを発表していなかったので、これが多くの人にとってウィンドウ、アイコン、マウス、ポインタといったものを初めて見る機会であった。残念ながら、1年後ビジオンが出荷された時には、ほとんど売れなかった。DOS用アプリケーションを実行できなかったため、表計算プログラム、グラフィックプログラム、ワープロ、それにマウスを含む専用のパッケージを購入しなければならず、それが合計で1765ドルもしたのだ。出荷が遅れ価格が高かった上に、動作が遅く、バグが山ほどあり、ハードウェアに対する要求も高かった。1983年8月、コントロール•データがビジオンを買収したものの、その後この業界から姿を消してしまった。しかし、ロータスデベロップメントが1985年にビジカルクの権利を買い、世界初の表計算の技術はロータス1,213に生き続けている。」リンツメイヤー,O.、林信行(2006)pp.91-92

リンツメイヤー,O.、林信行(2006)『アップル・コンフィデンシャル2.5J』上、アスペクト

Apple関係者によるIBM PC(1981)評価

販売チャネルを根拠として、IBM PC(1981)に対するAppleの優位性を確信していたApple社長(当時)のマイク・マークラ
 
「当初アップルには、IBMに対して優位を維持できるという自信があった。「IBMを市場から閉め出すつもりだ」と会長のスティーブ•ジヨブズは言った。「我々の守りは堅い」。社長のマイク•マークラも同様に鼻息が荒く、こう述べた。「我々はIBMがこの市場に参入してくるのを4年も前から見越し、待ち受けていた。主導権は我々にある。100万台の設置ベースのうち3分の1は押さえている。それに我々にはソフトウェアの蓄積がある。販売力も持っている。アップルのやることに対して行動を起こし、対応しなければならないのはIBMの方だ。今のやり方ではまったく不十分だ。IBMは、個人にどうやって売り込んだらよいか、まるでわかっていない。我々でさえ4年かけてようやくわかったのだから。IBMは流通機構や独立系のディーラ—について学ばなければならない。そういう時間は、金をつぎ込んだからといって短縮できるわけではない。第3次世界大戦でも起こらないかぎり、我々をノックアウトするのは不可能だ」リンツメイヤー,O.、林信行(2006) pp.180-181
 
IBM PC対抗製品としてのApple III
 
「我々は表計算を使える中小企業のオーナーをねらって、専用のコンピユータを設計した。それがアップルIIIだ。IBM がじりじりと追い上げてきている状況で、3年間、あらゆるプロジェクトと広告がアップルIIIのために使われた。その時世界で最も売れていたコンピュータの アップルIIのためにではなく」 スティーブ•ウォズニアック(「ニューズ ウイーク』1996年2月19日号)」
(リンツメイヤーほか,2006,93)
リンツメイヤー,O.、林信行(2006)『アップル・コンフィデンシャル2.5J』上、アスペクト
 
 
“We decided to go after small business owners who could use a spreadsheet, and designed a computer especially for them, the Apple III. With IBM nipping at our heels, every project and ad for three years was for the Apple III and not for the largest- selling computer worldwide, the Apple II.〃 Steve Wozniak(Newsweek, February 79,1996)
(Linzmayer,2004,15)
 
Linzmayer, Owen W. (2004) Apple Confidential 2.0:The Definitive History of the WoricTs Most Colorful Company, No Starch Press

Bill Gatesへの1993年インタビュー記録(Bill Gates関連のダウンロード可能なWEB上の資料)

https://web.archive.org/web/20001215161400/http://americanhistory.si.edu/csr/comphist/gates.htm
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インタビューアー:David Allison(当時の所属 Division of Computers, Information, & Society, National Museum of American History, Smithsonian Institution)
場所: Microsoft Corporation, Bellevue, Washington
日時:1993年11月30日~12月1日
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インタビュー内容
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8080の重要性を強調

  1. Family Background
  2. School Experiences
  3. Importance of Extra Curricular Activities
  4. Experiences with the PDP-10
  5. Creating Traf-O-Data
  6. Using an 8008 Processor
  7. Working for TRW
  8. Importance of the Microprocessor
    As early as 1971, Paul and I had talked about the microprocessor. And it was really his insight that because of semi-conductor improvements, things would just keep getting better. I said to him, “Oh, exponential phenomena is pretty rare, pretty dramatic. Are you serious about this? Because this means, in effect, we can think of computing as free.” It is a gross exaggeration, but it is probably the easiest way to understand what it means to cut cost like that. And Paul was quite convinced of that. So I would sort of say to Paul, “Well, you know what that means?” And he’d say, “Yeah, that is what it means.” It is kind of fun to know this, and think, gosh, how are companies going to react, how are they going to respond to something that phenomenal? The early days were very slow moving, though. By the time I went to Harvard, all there was was the 8008 chip. And the 8080 was just coming out, which was the first good general purpose microprocessor chip that Intel was coming out with.
  9. College Plans
  10. Discovery of Altair
  11. Writing an Altair Basic
  12. Testing the Basic
  13. Joining the PC Revolution
  14. Expanding Customers Beyond MITS
  15. Microsoft as a Separate Company
  16. Running Basic on an Altair
  17. The IMSAI Computer
  18. The People who formed Microsoft
  19. Early Microsoft Culture
  20. Basic for Other Early PC’s
  21. What Distinguished Microsoft Basic
  22. Running Microsoft Multiplan
  23. Defining Microsoft Corporate Strategy
  24. Move to the Business Market
  25. Keeping up with the Industry
  26. Growth of Microsoft
  27. Character of People Recruited
  28. The Move to Seattle
  29. The ‘Microsoft Way’
  30. Early Failures–and Lessons
  31. Relations with Paul Allen and Steve Ballmer
  32. Mazuhiko Nishi
  33. Vision for Spread of Personal Computers
  34. Keeping up with the Comptetition
  35. The TRS-80 Model 100
  36. End of First Phase of PC History
  37. The Altair Basic Paper Tape
  38. Holding the Beginning of Microsoft in his Hands
  39. Advent of the IBM-PC
  40. IBM-PC Design and Development Issues
  41. Switch from CP/M to DOS
  42. Features of Microsoft DOS
  43. Development of Microsoft Word
  44. Microsoft and the Mouse
  45. IBM-PC Compatible Explosion
  46. Relationship Between Microsoft and Apple
  47. Builing the Corporate Campus
  48. Going Public
  49. Microsoft’s Growth
  50. A Changing Culture
  51. The Business of the AT
  52. Continuing Business Expansion
  53. Challenges of the Windows Interface
  54. Moving to the 386
  55. Battle Between OS/2 and Windows
  56. Growing Windows
  57. Responding to Networks
  58. Pushing Towards Multimedia
  59. Directions of Windows NT
  60. Workgroup Computing
  61. Computers and Societal Transformation
  62. The Future of Computing
  63. Scary Developments
  64. New Corporate Branches
  65. Closing Thoughts

コンピュータ関連市場データ

Supercomputer、Mainframe、Midrange、Workstation、Personal computerの出荷金額および出荷台数の歴史的推移1990-1995
 

FACTORY REVENUE (mil. dol.)
[Revenue is in if-sold, end-user dollars]
computer-factory-revenue-1990-1995.xlsx

 

SHIPMENTS (units)
computer-shipment-1990-1995.xlsx

 
1990年、1994年、1995年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1997) Statistical Abstract of the United States: 1997 (117th Edition)
No. 1251. Computer Shipments and Revenues: 1990 to 1995
https://www2.census.gov/library/publications/1997/compendia/statab/117ed/tables/manufact.pdf

1991年、1992年、1993年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1995)Statistical Abstract of the United States: 1995 (115th Edition)
No. 1268. Computer Shipments and Revenues: 1991 to 1993
https://www2.census.gov/library/publications/1995/compendia/statab/115ed/tables/manufact.pdf

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移1984-2014

Martin, M. (2021) “Computer and Internet Use in the United States: 2018” American Community Survey Reports, April 2021, p.3
https://www.census.gov/library/publications/2021/acs/acs-49.html
https://www.census.gov/content/dam/Census/library/publications/2021/acs/acs-49.pdf

上記のグラフでは、コンピュータの家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1984-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が、
インターネットのサブスクリプション契約の家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1997-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が描かれている。

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高(単位 100万ドル)

会社名 1979年 1982年
Apple 75 664
IBM  –  500
Tandy {Radio Shack) 150 466
Commodore 55 368
Hewlett-Packard NA 235
Texas Instruments  –  233
Digital Equipment Corp.(DEC)  –  200

[引用元]
International competitiveness in electronics, University of Michigan Library,p.149のTable 38.-Major U.S. Manufacturers Ranked by 1982 Worldwide Microcomputer Sales
[原出典]
1979年 ”The Datamation 100,” Datamation, June 1980, p 87
1932年 Archbold,P. (1983) “The Datamation 100 Welcome to the Club,” Datamation, June 1983, p.87

リレー式計算機

プログラム駆動型の機械的計算機の実用化は、歯車駆動の動力源に関する蒸気動力や電気動力というイノベーションによってではなく、演算素子に関する「歯車」から「リレー」(継電器)へのイノベーションによって実現された。リレーとは、電磁石に電流を流すと発生する磁力を利用してスイッチのオン・オフを機械的におこなう装置である。

ただし新しい演算子であるリレーという機械的部品は、より高速な機械的計算機に対する必要性に対応して新規に発明されたものではなく、電話交換機用の部品として既に利用されていた部品である。歯車を演算素子とする機械的計算機の高速化のための技術的シーズ(seeds)としてリレーが利用されたのである。

 
リレーを演算素子とする機械的computer
 リレーが演算素子として利用可能であることは1930年代後半に広く知られるようになった。プログラムが動作するリレー式計算機の最初期のものに、ドイツのツーゼ(Konrad Zuse,1910-1995)のZ2(1939、リレー数600個)やZ3(1941、演算処理用600個、記憶処理用1,400個でリレー総数2,000個)、アメリカのエイケン(Howard Aiken)が考案しIBMが製作したHarvard Mark I(1944、リレー数3,304個)などがある。
エイケンのハーバード大学における博士論文の指導教授 E. L. Chaffeeの専門は真空管および真空管回路であり、エイケンの博士論文も真空管に関わるエレクトロニクス分野のものであったにも関わらず、エイケンがHarvard Mark Iにおいて演算素子として真空管ではなくリレーを選択したのは、技術的問題というよりは「製造コスト」および「実際の設計・開発を担ったのがIBMであった」という二つの要素によるものである。
例えばエイケンはリレーを選択した理由に関するインタビューの中で、「答えは製造コストにある(the answer is money)」、「真空管を用いたデジタル・カウンターの技術を利用することで、電子的部品を用いて製造可能なことは明らかであった。・・・もしRCAが興味を持っていれば、[真空管を用いた]電子的計算機となったであろう」(Cohen,1999,p.43、[]内は引用者による補足)と述べている。
リレー式計算機は第二次大戦中だけでなく、Harvard Mark Iの後継機Harvard Mark II(1947)などに見られるように第二次大戦終了後も製作されている。ENIAC(1946)やEDVAC(1948)など真空管式電子computerが登場した後に、リレー式computerが単純に時代遅れのものとしてすぐに廃れたわけではなく、その研究・開発は引き続き行われていた。
戦後日本でもリレー式計算機の研究・開発がおこなわれている。例えば日本で最初に製作されたデジタル式計算機である電気試験所のETL Mark I(1952)はリレー式computerであったし、その後継機のETL Mark II(1955、リレー数22,253個)もリレー式computerであった。また富士通は、1950年代には真空管式電子computerの研究開発が主流であったにも関わらず、「当時の真空管の動作があまりにも不安定だった」ことや「電話交換機に用いられる部品であるリレーに関して優れた技術的蓄積が社内にあった」といった技術的理由からFACOM 100(1954)という日本初の実用リレー式computerを開発するとともに、その後もFACOM128A(1956)、FACOM128B(1958)、FACOM138A(1960)などリレー式の大型computerの研究開発・販売をおこなっている。
 
「リレーを演算素子とする機械的calculator」としてのカシオリレー計算機14-A(1957)
プログラム型計算機であるcomputer分野だけでなく、四則演算など数値計算を主とする計算機であるcalculator分野においても、リレー式計算機の研究開発がおこなわれている。

たとえばカシオ計算機は、1957年にリレーを用いた卓上型電子calculator「カシオ14-A」(消費電力300W、重量120kg、高さ78cm×幅101cm×奥行42cm)を完成させ485.000円で販売を開始した。「カシオ14-A」は、テンキー入力で数値をランプで表示する方式を採用しており、リレー式であることから歯車式に比べて加減算で3~4倍、乗算で6~7倍という早さで14桁の計算をした。なおテンキー方式を採用したのは、卓上型calculatorとして数値入力部の大きさを小さくするためであった(フルキー方式の卓上型calculatorでは四則演算可能な桁数を大きくすればするほど、桁数に比例して入力部のスペースが大きくなってしまう。)。

[図の出典]内田洋行の1958年のカタログ[電卓ミュージアム所蔵、http://www.dentaku-museum.com/calc/calc/2-casio/1-casiod/br/b-1.jpg]
上記カタログでは、「わが国には,欧米各国より,多種多棟の電気計算機が輸入されておりますが,それらの電動計算機は,純機械的な構造のため,機能的な限界があり,止むところを知らない近代企菜の発展には,どうしても適応しない,と云う大きな欠陥がありました。」とした上で、「觉子計算機と共に計算機の双璧とも云われる継電器(リレー)による純国産の計算機」を開発した、としている。なおかつカシオは、従来のリレー式電子計算機が富士通のFACOM 100(1954)やFACOM128A(1956)などのように「実験室または研究室用の著しく大型」のものではなく、機能・性能を絞ることによって小型化した、としている。
 リレーを演算素子とすることにより、「故障がほとんどなく、数千万回の動作にも耐える」、 「本機の計算速度を電動計算機の回耘数に換算すると毎分1300〜1500回転の速度に相当し,軽快なキータッチで正確な答が得られる。」などといった「電動計算機の遠くおよばない数多くの特長」を備えることができるようになったとしている。
 リレー式電子computerでは22,253個ものリレーを利用したETL Mark II(1955)などに見られるようにプログラム演算、メモリなどの多様な機能を実現するために多数のリレーが使用されていた。これに対して普通の事務作業用途での使用を想定し、小型軽量化や低価格化を実現するとともに、四則演算などに機能を限定したcalculatorであるカシオ14-Aでは使用するリレーの数を342個までに減らしていた。
カシオはその後もリレー式計算機の開発を続け、1964年6月にはカシオ401を、1965年5月にはカシオ402を発売している。