Bill Gatesへの1993年インタビュー記録(Bill Gates関連のダウンロード可能なWEB上の資料)

https://web.archive.org/web/20001215161400/http://americanhistory.si.edu/csr/comphist/gates.htm
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インタビューアー:David Allison(当時の所属 Division of Computers, Information, & Society, National Museum of American History, Smithsonian Institution)
場所: Microsoft Corporation, Bellevue, Washington
日時:1993年11月30日~12月1日
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インタビュー内容
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8080の重要性を強調

  1. Family Background
  2. School Experiences
  3. Importance of Extra Curricular Activities
  4. Experiences with the PDP-10
  5. Creating Traf-O-Data
  6. Using an 8008 Processor
  7. Working for TRW
  8. Importance of the Microprocessor
    As early as 1971, Paul and I had talked about the microprocessor. And it was really his insight that because of semi-conductor improvements, things would just keep getting better. I said to him, “Oh, exponential phenomena is pretty rare, pretty dramatic. Are you serious about this? Because this means, in effect, we can think of computing as free.” It is a gross exaggeration, but it is probably the easiest way to understand what it means to cut cost like that. And Paul was quite convinced of that. So I would sort of say to Paul, “Well, you know what that means?” And he’d say, “Yeah, that is what it means.” It is kind of fun to know this, and think, gosh, how are companies going to react, how are they going to respond to something that phenomenal? The early days were very slow moving, though. By the time I went to Harvard, all there was was the 8008 chip. And the 8080 was just coming out, which was the first good general purpose microprocessor chip that Intel was coming out with.
  9. College Plans
  10. Discovery of Altair
  11. Writing an Altair Basic
  12. Testing the Basic
  13. Joining the PC Revolution
  14. Expanding Customers Beyond MITS
  15. Microsoft as a Separate Company
  16. Running Basic on an Altair
  17. The IMSAI Computer
  18. The People who formed Microsoft
  19. Early Microsoft Culture
  20. Basic for Other Early PC’s
  21. What Distinguished Microsoft Basic
  22. Running Microsoft Multiplan
  23. Defining Microsoft Corporate Strategy
  24. Move to the Business Market
  25. Keeping up with the Industry
  26. Growth of Microsoft
  27. Character of People Recruited
  28. The Move to Seattle
  29. The ‘Microsoft Way’
  30. Early Failures–and Lessons
  31. Relations with Paul Allen and Steve Ballmer
  32. Mazuhiko Nishi
  33. Vision for Spread of Personal Computers
  34. Keeping up with the Comptetition
  35. The TRS-80 Model 100
  36. End of First Phase of PC History
  37. The Altair Basic Paper Tape
  38. Holding the Beginning of Microsoft in his Hands
  39. Advent of the IBM-PC
  40. IBM-PC Design and Development Issues
  41. Switch from CP/M to DOS
  42. Features of Microsoft DOS
  43. Development of Microsoft Word
  44. Microsoft and the Mouse
  45. IBM-PC Compatible Explosion
  46. Relationship Between Microsoft and Apple
  47. Builing the Corporate Campus
  48. Going Public
  49. Microsoft’s Growth
  50. A Changing Culture
  51. The Business of the AT
  52. Continuing Business Expansion
  53. Challenges of the Windows Interface
  54. Moving to the 386
  55. Battle Between OS/2 and Windows
  56. Growing Windows
  57. Responding to Networks
  58. Pushing Towards Multimedia
  59. Directions of Windows NT
  60. Workgroup Computing
  61. Computers and Societal Transformation
  62. The Future of Computing
  63. Scary Developments
  64. New Corporate Branches
  65. Closing Thoughts

コンピュータ関連市場データ

Supercomputer、Mainframe、Midrange、Workstation、Personal computerの出荷金額および出荷台数の歴史的推移1990-1995
 

FACTORY REVENUE (mil. dol.)
[Revenue is in if-sold, end-user dollars]
computer-factory-revenue-1990-1995.xlsx

 

SHIPMENTS (units)
computer-shipment-1990-1995.xlsx

 
1990年、1994年、1995年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1997) Statistical Abstract of the United States: 1997 (117th Edition)
No. 1251. Computer Shipments and Revenues: 1990 to 1995
https://www2.census.gov/library/publications/1997/compendia/statab/117ed/tables/manufact.pdf

1991年、1992年、1993年の数値の出典
U.S. Census Bureau(1995)Statistical Abstract of the United States: 1995 (115th Edition)
No. 1268. Computer Shipments and Revenues: 1991 to 1993
https://www2.census.gov/library/publications/1995/compendia/statab/115ed/tables/manufact.pdf

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移

アメリカにおけるコンピュータおよびインターネットの家庭世帯普及率の推移1984-2014

Martin, M. (2021) “Computer and Internet Use in the United States: 2018” American Community Survey Reports, April 2021, p.3
https://www.census.gov/library/publications/2021/acs/acs-49.html
https://www.census.gov/content/dam/Census/library/publications/2021/acs/acs-49.pdf

上記のグラフでは、コンピュータの家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1984-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が、
インターネットのサブスクリプション契約の家庭世帯普及率のデータは、Current Population Survey (CPS)による1997-2017、および、American Community Survey (ACS)による2013-2018の2種類が描かれている。

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高

米国の主要PCメーカーの1979年および1982年の世界売上高(単位 100万ドル)

会社名 1979年 1982年
Apple 75 664
IBM  –  500
Tandy {Radio Shack) 150 466
Commodore 55 368
Hewlett-Packard NA 235
Texas Instruments  –  233
Digital Equipment Corp.(DEC)  –  200

[引用元]
International competitiveness in electronics, University of Michigan Library,p.149のTable 38.-Major U.S. Manufacturers Ranked by 1982 Worldwide Microcomputer Sales
[原出典]
1979年 ”The Datamation 100,” Datamation, June 1980, p 87
1932年 Archbold,P. (1983) “The Datamation 100 Welcome to the Club,” Datamation, June 1983, p.87

リレー式計算機

プログラム駆動型の機械的計算機の実用化は、歯車駆動の動力源に関する蒸気動力や電気動力というイノベーションによってではなく、演算素子に関する「歯車」から「リレー」(継電器)へのイノベーションによって実現された。リレーとは、電磁石に電流を流すと発生する磁力を利用してスイッチのオン・オフを機械的におこなう装置である。

ただし新しい演算子であるリレーという機械的部品は、より高速な機械的計算機に対する必要性に対応して新規に発明されたものではなく、電話交換機用の部品として既に利用されていた部品である。歯車を演算素子とする機械的計算機の高速化のための技術的シーズ(seeds)としてリレーが利用されたのである。

 
リレーを演算素子とする機械的computer
 リレーが演算素子として利用可能であることは1930年代後半に広く知られるようになった。プログラムが動作するリレー式計算機の最初期のものに、ドイツのツーゼ(Konrad Zuse,1910-1995)のZ2(1939、リレー数600個)やZ3(1941、演算処理用600個、記憶処理用1,400個でリレー総数2,000個)、アメリカのエイケン(Howard Aiken)が考案しIBMが製作したHarvard Mark I(1944、リレー数3,304個)などがある。
エイケンのハーバード大学における博士論文の指導教授 E. L. Chaffeeの専門は真空管および真空管回路であり、エイケンの博士論文も真空管に関わるエレクトロニクス分野のものであったにも関わらず、エイケンがHarvard Mark Iにおいて演算素子として真空管ではなくリレーを選択したのは、技術的問題というよりは「製造コスト」および「実際の設計・開発を担ったのがIBMであった」という二つの要素によるものである。
例えばエイケンはリレーを選択した理由に関するインタビューの中で、「答えは製造コストにある(the answer is money)」、「真空管を用いたデジタル・カウンターの技術を利用することで、電子的部品を用いて製造可能なことは明らかであった。・・・もしRCAが興味を持っていれば、[真空管を用いた]電子的計算機となったであろう」(Cohen,1999,p.43、[]内は引用者による補足)と述べている。
リレー式計算機は第二次大戦中だけでなく、Harvard Mark Iの後継機Harvard Mark II(1947)などに見られるように第二次大戦終了後も製作されている。ENIAC(1946)やEDVAC(1948)など真空管式電子computerが登場した後に、リレー式computerが単純に時代遅れのものとしてすぐに廃れたわけではなく、その研究・開発は引き続き行われていた。
戦後日本でもリレー式計算機の研究・開発がおこなわれている。例えば日本で最初に製作されたデジタル式計算機である電気試験所のETL Mark I(1952)はリレー式computerであったし、その後継機のETL Mark II(1955、リレー数22,253個)もリレー式computerであった。また富士通は、1950年代には真空管式電子computerの研究開発が主流であったにも関わらず、「当時の真空管の動作があまりにも不安定だった」ことや「電話交換機に用いられる部品であるリレーに関して優れた技術的蓄積が社内にあった」といった技術的理由からFACOM 100(1954)という日本初の実用リレー式computerを開発するとともに、その後もFACOM128A(1956)、FACOM128B(1958)、FACOM138A(1960)などリレー式の大型computerの研究開発・販売をおこなっている。
 
「リレーを演算素子とする機械的calculator」としてのカシオリレー計算機14-A(1957)
プログラム型計算機であるcomputer分野だけでなく、四則演算など数値計算を主とする計算機であるcalculator分野においても、リレー式計算機の研究開発がおこなわれている。

たとえばカシオ計算機は、1957年にリレーを用いた卓上型電子calculator「カシオ14-A」(消費電力300W、重量120kg、高さ78cm×幅101cm×奥行42cm)を完成させ485.000円で販売を開始した。「カシオ14-A」は、テンキー入力で数値をランプで表示する方式を採用しており、リレー式であることから歯車式に比べて加減算で3~4倍、乗算で6~7倍という早さで14桁の計算をした。なおテンキー方式を採用したのは、卓上型calculatorとして数値入力部の大きさを小さくするためであった(フルキー方式の卓上型calculatorでは四則演算可能な桁数を大きくすればするほど、桁数に比例して入力部のスペースが大きくなってしまう。)。

[図の出典]内田洋行の1958年のカタログ[電卓ミュージアム所蔵、http://www.dentaku-museum.com/calc/calc/2-casio/1-casiod/br/b-1.jpg]
上記カタログでは、「わが国には,欧米各国より,多種多棟の電気計算機が輸入されておりますが,それらの電動計算機は,純機械的な構造のため,機能的な限界があり,止むところを知らない近代企菜の発展には,どうしても適応しない,と云う大きな欠陥がありました。」とした上で、「觉子計算機と共に計算機の双璧とも云われる継電器(リレー)による純国産の計算機」を開発した、としている。なおかつカシオは、従来のリレー式電子計算機が富士通のFACOM 100(1954)やFACOM128A(1956)などのように「実験室または研究室用の著しく大型」のものではなく、機能・性能を絞ることによって小型化した、としている。
 リレーを演算素子とすることにより、「故障がほとんどなく、数千万回の動作にも耐える」、 「本機の計算速度を電動計算機の回耘数に換算すると毎分1300〜1500回転の速度に相当し,軽快なキータッチで正確な答が得られる。」などといった「電動計算機の遠くおよばない数多くの特長」を備えることができるようになったとしている。
 リレー式電子computerでは22,253個ものリレーを利用したETL Mark II(1955)などに見られるようにプログラム演算、メモリなどの多様な機能を実現するために多数のリレーが使用されていた。これに対して普通の事務作業用途での使用を想定し、小型軽量化や低価格化を実現するとともに、四則演算などに機能を限定したcalculatorであるカシオ14-Aでは使用するリレーの数を342個までに減らしていた。
カシオはその後もリレー式計算機の開発を続け、1964年6月にはカシオ401を、1965年5月にはカシオ402を発売している。

富士通のリレー式計算機

https://www.fujitsu.com/jp/about/plus/museum/relay/
富士通は、富士通沼津工場池田記念室に設置されているFACOM128Bと、川崎工場富士通テクノロジーホールに設置されているFACOM138Aに関して、動態保存をおこなっている。本WEBページはそのことに関する紹介ページである。
リレー式計算機とは、演算素子として電磁リレーを用いた計算機である。リレー式計算機では、電磁リレー(電磁石を使ったスイッチ)の接点に電流が流れるか流れないかを電気回路のON/OFFに対応させて計算を行っている。
 FACOM128Bでは、CPU(中央演算処理装置)部分に約5000個のリレーを使用している。同機では「リレーは機械的に動作するため、接触不良を起こしにくい回路設計やリトライ機能(自己検査機能)に工夫がこらされた」とされている。
 
2.電磁リレーの動作図
電流が流れていると、図aのように電磁石に発生した磁力によって接点が「吸引」されて「ON」状態となる。電流が流れていないと、電磁石の磁力がなくなるため、ばねによって図bのように接点が元の位置に「復帰」し「OFF」状態となる。

松下電器製造・技術研修所編(1978)『制御基礎講座1 プログラム学習によるリレーシーケンス制御』廣済堂出版、p.63。
 
3.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)の広告(1957年)
以下の広告は、科学技術庁監修(1957)『科学技術展望』Vol7 No2に掲載されていたものである。

広告1.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)のスペック広告(1957年)
プログラミングが容易であることを第一の特長として挙げるとともに、第2の特長として「演算速度が大」とし「本機によって演算を行うときは人手を用いる場合の100倍以上の能率を上げることができます」とされている。
 電磁リレーは機械的装置であるため、その演算速度は現代的視点から見るとかなり遅かった。すなわち演算の実行速度は、加減算0.15秒、乗算0.15~0.4秒、除算および開平算 0.2~1.4秒などというように、低速なマシンであった。

 
広告2.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)のシステム構成に関する広告(1957年)
リレー式計算機(図では継電器架と表記されている)の入出力装置として、カードリーダー、数値テープ読取機・穿孔機、命令テープ読取機、印刷機、テープ作製台が例示されている。
また用途として、「天体科学、工業技術、経済数理、その学術一般」を挙げている。

富士通リレー式計算機のシステム構成

 
広告3.富士通のリレー式計算機FACOM128(1956)の製造プラントにおけるプロセス・オートメーション利用に関する広告(1957年)

マイクロプロセッサおよびコンピュータの用途としての「遊び」の認知ー米国における先行性

遠藤諭(2019)「TK-80、PC-8001、NECのパソコンはこんな偶然から始まった」遠藤諭のプログラミング+日記 第67回、2019年08月08日
https://ascii.jp/elem/000/001/912/1912291/

「知った瞬間なんていうと突然目の前に現れたみたいですが、NECのICを製造している部門が『これからはマイコンチップ』だろうと言い出したんですね。インテルとほぼ同じ頃に、μCOM4という4ビットのマイコンを作ったんですよ。ところが、半導体チップというのは、作るとなると一度に何千個もできてしまう。社内では『これほど大量に製造して、使い道があるのか?』という声がありました。そんなときに、私が、マイコンチップの販売を命じられたのです」
マイクロコンピュータ販売部の部長に任命され、半期にチップを1億円売れというノルマが課せられた。ところが、トランジスタは「真空管からの置き換え」だったが、マイコンチップは、いままでまったく存在しなかったニーズを引き出すことから始まる。「むこうは自社製品にマイコンチップを使うなど考えたこともない。話にならないんです」という状況だった。このまま暗中模索ということになりそうだが、すぐに腰を上げて動いてしまうのが渡邊氏だった。
 「まずはアメリカで4004がどういう市場で使われているのかを調査ですよ。当時、カリフォルニアのベイエリアでマイコンクラブが結成され始めた頃でした。『ピープルズ・コンピュータ』というクラブ会報の『ドクター・ドブズ・ジャーナル』が創刊された頃で、その会合にも行きました。そこには、ジーパン姿でラフな服装をしたヒッピーのような人々ばかりがいましたが、彼らは、『コンピュータなんかオモチャに使う時代だよ』など、当時の日本では思いもつかないことばかり言っていましたね。帰国して『アメリカではコンピュータの概念が覆っている』と報告しますと、会社の上層部に『コンピュータを遊びに使うなんて不謹慎だ』と言われた時代でした。今では嘘みたいな話ですけど、本当にそういうムードでした」
 

マイクロプロセッサーの販売拡大手段としてのマイコンキット

「座談会ーパソコンが社会生活•文化を変える」『パソコン白書92-93』p.185
「メーカの立場から言いますと,パソコン開発の動機はある意味で不純でした。マイクロコンピュータをいかに拡販していこうか。そのためにはこんなマイコンのキットをつくったらいいのではないか。パソコンみたいなものを構築できるのではないかというところからスタートしたのです。」
[注]上記引用文章における「マイクロコンピュータ」という用語で意味しているのは、現代的用語でいえばマイクロプロセッサのことである。
 
8ビットマイコンは、市場を開拓しなければ売れないという点においては4ビット以上だった。しかも、買う側に、それを使いこなす能力(リテラシー)がないとそもそも動機づけも発生しない。国内では、まだまだ4ビットの需要がほとんどで、「8ビットはいらない」という声もあったという。そのため、μCOM80は、とにかく絶望的に売れていなかった。

 ユーザー教育のために、渡邊氏は、「NECマイコン教室」というものを全国あちこちで開くことにする。マイコン自体の認知が少しずつ進んでいたこともあって、小さな会社から大企業の社員までが集まった。ところが、なんとかマイコンを使った製品を自社でも作れないかと、がんばって勉強してくれるのだがなかなか習得が進まない。

 「コンピュータの教育というのは、当時、どうやってやっていたかといいますと、教室で黒板とテキストを使って講義をしていたのですね。しかし、それでは、3回きいても4回聞いてもなかなか理解できないんです。ところが、実物を相手にして、コンピュータの反応を直に自分で体験していくと、いままで30分かけないとわからなかったことが、あっという間に頭に入ってしまうんですね。それで、これは教材を作らないといけないというわけで、教材を開発することになったのです」

「マイコンチップ自体がコンピュータですから、これをプリント基板にのせて作るわけですが、問題は入出力機器です。当時、そのような場合にはASR-33という端末が有名でしたけど、いわゆるテレタイプをつなぐのですが、それだと教室に一台しか持ちこめない。しかも、その一台は先生がやってみせるだけで肝心の生徒はいじるわけにも触る訳にもいかない。それでは教育効果があろうはずがありません」

―― それで生徒各人がもてる教材を作った!

 「そうです。みんなの机にのるだけでなく、入出力機器まで備えたワンボードコンピュータが、いちばん効率的だろうということで開発することにしたのです。それが、TK-80になるわけですが、これはコンピュータとして売っていこうというつもりで作ったのではなく、『マイコンを知ってもらうためにはどうしたらいいか?』ということで作ったのですね。したがいまして、名前もTKは《トレーニングキット》となるわけです」
 

 しかし、教材を作ろうと決めてからが苦労の始まりでもあった。NECは代表的なコンピュータメーカーだったが、とてもこのような教材を作るのに社内の協力を得られるとは思えない。そこで、マイクロコンピュータ販売部の中で、後藤富雄、加藤明、半田幹夫の3名を中心にして、ワンボードマイコンの開発にあたることになる。